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なぜ“手マン”は前戯扱いされるのか?|挿入至上主義AVの快感構造を疑う

AV

なぜ“手マン”は前戯扱いなのか?

AVにおいて“手マン”は、ほぼ例外なく「挿入までの準備」=前戯として描かれます。

それ自体を“本番”として描く作品は、圧倒的に少ない。

でも、ちょっと待ってほしい。
実際のセックスにおいて、手マンでイく女性は少なくない
それなのに、なぜここまで軽視されるのだろう?


AVが描く“快感のヒエラルキー”

AVの構造には、明確なヒエラルキーがあります。

  • キス → 前戯(愛撫・手マン・フェラ)→ 挿入 → 絶頂(射精)

この流れは、ほとんどの作品で共通です。

つまり「挿入=本番」「手マン=前座」という価値観が前提になっている。

しかし、挿入だけが“最高の快楽”とされるのは、あまりに偏っていないか?


なぜ“手マン”は評価されないのか?

理由のひとつは、「視覚的な“やってる感”の弱さ」です。

挿入や射精は“見て分かりやすい”から盛り上がる。

一方、手マンは「何が起きてるか分かりにくい」=映えない

視覚=興奮の中心にあるAVでは、「分かりやすさ」が正義になる。

その結果、“本当に気持ちいい”はずの行為が脇役に追いやられてしまうのです。


“挿れれば勝ち”じゃない快感構造

実際のセックスでは、挿入せずに満たされる人もいるし、手マンで何度もイける人もいます。

にもかかわらず、AVでは「挿れなきゃ始まらない」「出さなきゃ終わらない」という構造が支配的です。

この価値観は、男性視点の“征服感”や“支配性”と深く結びついているのではないか。

“自分の体でイカせた”という実感が、手よりもチンコに求められているのです。


「手マンが主役」のAVもある

ただ近年では、手マン自体を主役に据えた作品も少しずつ登場しています。

たとえば、最強ヒロインの潜在的エロス爆発 瀬戸環奈は、あえて挿入を主役にせず、“指による快感の積み上げ”にフォーカスした稀有な一本。

視覚的な派手さよりも、「触れて開いていく快楽」を丁寧に見せてくれる構成が印象的です。

こうした作品は、AVの快感構造を問い直すきっかけにもなります。


快感の“主役交代”は起きるのか?

AVが快感を描くとき、そこには必ず“優先順位”があります。

でも、本当にそれでいいのか?

もっと自由に、もっと多様に。
“手マン”のような行為が、ちゃんと「主役」として描かれるAVが増えることで、私たちの快感観もアップデートされていくのかもしれません。

あなたにとって、“本番”って何ですか?
それは、本当に“挿れること”でしか得られないものですか?

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