なぜAVでは“電マ”が気持ちいい前提で描かれているのか?
AVにおいて“電マ”の登場は定番です。
登場すれば即イキ、びくびく震えて潮を吹く。
もはや快感のスイッチのような存在です。
でも、ちょっと待ってほしい。
電マ=気持ちいいは、本当に万人に通じる事実なのでしょうか?
AVが描く“電マ信仰”
AVにおいて電マは、“確実にイカせられる装置”として扱われます。
特に責められる女優が、「嫌がっていたのに電マでイカされる」という展開はテンプレと化しています。
これは視覚的・演出的に“分かりやすく盛り上がる”という理由で導入されがちです。
“感じて当然”が押しつけになる構造
実際には、電マの刺激は非常に強く、むしろ痛い・合わないと感じる人も少なくありません。
それでもAVの中では、「気持ちよくなれよ」ではなく「気持ちよくなるはずだろ?」という演出が蔓延しています。
つまり、“快感の押しつけ”が起きている。
それは女優に対してだけでなく、視聴者にとっても
「電マ=正しい快感の形」という思い込みを刷り込む構造でもあります。
スイッチ式快感は本当にリアルか?
私たちの性はそんなに単純な構造でしょうか?
快感とは、触れ方・心の状態・信頼関係など複合的な条件で立ち上がるもののはず。
“機械をあてれば気持ちいい”という単純化は、性の多様性を貧しくするのではないでしょうか。
電マ依存を見せるAVの象徴作品
たとえば『祝7周年!ハメ潮無限噴射 本物精子10顔射大乱交SPECIAL!!ノンストップFUCKでイカされ続けてずぶ濡れ大大大絶頂!!! 唯井まひろ【特典映像収録版】』はその最たる例。

登場から絶頂まで数十秒。
あとは“どれだけイカせるか”を数字的に積み上げていくだけです。
そこにあるのは快感の深化ではなく、視覚的な分かりやすさと刺激の過剰化。
快感はもっと“未定義”でいい
AVの中で語られる快感は、しばしば演出された正解になってしまいます。
でも、本来の快感は、揺れ動き、予測不可能で、人によって全然違うもの。
だからこそ、「気持ちよくないかもしれない」描写があってもいい。
電マにすら、個人差があって当然なのです。
スイッチを入れたら絶頂——
そんな「便利な快感」から、そろそろ自由になってもいいのではないでしょうか?