AVにこそ作家性がある|ジャンルや女優だけで選ぶ時代の終わり

映画は監督で観るのに、なぜAVは違うのか?

映画を選ぶとき、私たちはよく監督の名前を気にします。
宮崎駿、北野武、是枝裕和──誰が作ったのかで、作品の期待値が大きく変わるからです。

しかしAVにおいて、その視点はあまりに軽視されていないでしょうか?

「この女優が出ているから観る」「ジャンルが好きだから観る」──もちろんそれも正しい選び方です。でも、“誰が撮っているか”という視点を加えることで、AVというコンテンツの世界は格段に広がるのです。


AV監督という作家たち──演出の個性はこんなにも違う

AV監督には、はっきりとした“作家性”があります。

たとえば、カンパニー松尾監督はドキュメンタリータッチのリアリズムで知られ、インタビューや素の表情を重視した作品づくりが特徴です。
一方で、溜池ゴロー監督は、美熟女ジャンルを確立した名匠で、シチュエーションの中に静かな官能を滲ませる演出が定評です。

さらに、真咲南朋のような女性監督は、女性の視点や情緒に重きを置いた柔らかな作品を生み出しています。男性監督にはない繊細さと、女性ならではの官能美が表現されるのです。

同じジャンル、同じ女優でも、監督によって「作品の顔」がまったく変わる──それがAVの奥深さです。


監督が違えば、AVはどう変わるのか?

では、実際に監督が異なることで作品にはどんな違いが出るのでしょうか?

  • カメラワークの距離感:臨場感を重視するか、官能的にぼかすか
  • 台詞の有無や演出の濃度:リアルな言葉を活かすか、演技を排除するか
  • プレイ内容や構成:企画志向か、ノンフィクション的な流れか
  • 女優の“見せ方”:笑顔を切り取るのか、無言の時間を活かすのか

このように、AV作品には“撮る人の哲学”がそのまま反映されます。

同じ女優でも、ある監督のもとでは無垢な存在として映り、別の監督の手にかかれば妖艶な肉体として浮かび上がる。それはまるで、一枚のキャンバスに異なる画家が絵を描いたときの違いのようです。


AVを“消費”ではなく“鑑賞”するために

AVを“抜くためのコンテンツ”として消費するのではなく、“演出された表現”として味わうという見方があってもいいはずです。

誰が撮ったか? どんな美意識で、どんな視点から撮られているのか? それを意識するだけで、AVはもっと奥深い作品になります。

映画を監督で選ぶように、AVも監督で選んでみよう。
それは、これまで見過ごしてきた“作品”としてのAVを発見することにつながります。

きっとあなたのAVライフは、もう一段、深く豊かになるはずです。

タイトルとURLをコピーしました